17.マルクスは生きている 過日の読売新聞に、読売新聞特別編集委員の橋本五郎氏による書評が掲載されていた。前共産党委員長・不破哲三著「マルクスは生きている」についてである。 曰く:不破氏らしい明晰さで、マルクスの現代的意味を三つの側面から解説して、説得力がある。しかし他方で、ならば何故、共産主義が世界の主流にならないかという疑問に逢着、60年前の小泉信三「共産主義批判の常識」を改めて読んでみる。そこにはマルクス主義の根幹にかかわる問題点が実に平易に描かれている。両書を読むと、マルクスの原点に挑戦してみたい気持ちにさせられる云々と。 私はこれを読んで、何だ、読売新聞特別編集委員の肩書きを持つ、橋本氏さえ、まだ資本論を読んでないのか、という驚きを禁じ得なかったと同時に、未だにマルクスに対する評価を決めかねている事がよくわかった。しかし、短い書評ではあったが、橋本氏の正直な人柄が現れていると思う。それはともかく、氏の書評に促されて、私も「マルクスは生きている」を読んだ。その感想を少々。 NZ パンケーキ・ロック ソ連が崩壊した18年前は、全くの音無しであった共産主義シンパから、昨今の世界的な経済恐慌を境に、またぞろ息を吹き返したように、マルクス再評価を訴える著書が出版されだした。本著もその例外ではない。本来マルクスが正しかったのか、誤りであったのかは、ソ連が崩壊したから、アメリカの金融資本主義が崩壊したから、と言って評価がグラグラするようなものではないはずだ。しかし世間というのはそんなところであろう。 本著は次のように、テーマを大きく三章に分けて書かれている。 第一章 唯物論の思想家・マルクス 第二章 資本主義の病理学者・マルクス 第三章 未来社会の開拓者・マルクス 第一章から順を追って感想を述べてみよう。 まず、読者が唯物論者か観念論者かを判別する為に三つの質問をしている。 質問第一「あなたは、人間が生まれる前に、地球があったことを認めますか」。 質問第二「あなたは、人間がものを考えるとき、脳の助けを借りていると思いますか」。 質問第三「あなたは、他人の存在を認めますか」。 そして、三問とも「イエス」なら、唯物論者であると結論づける。 何とも乱暴な誘導尋問だ。私は三問とも「イエス」だが、唯物論者ではない。 それでは私は次の三問を出してみよう。 質問第一「あなたは、宗教を認めますか」。 質問第二「あなたは、天安門事件を是認しますか」。 質問第三「あなたは、生命を見たことがありますか」。 質問第一の答えが「認める」の人は、マルクスの側(唯物論者)ではない。 質問第二の答えが「是認できない」の人は、中国共産党の側(唯物論者)ではない。 質問第三の答えは、ほとんどの人は「いいえ」であろう。 自分の生命さえ見たことはない。しかし、無いのかというと断じてそんなことはない。喜怒哀楽、地獄・餓鬼・畜生、等、生命は種々に変化して一時も止まってはいないのだが、見せてくれと言われても、とまどうだけでそれを他人に見せることは出来ない。顕微鏡を持ってしても見ることは不可能である。生命は単純に、物か、心かでは説明できないのである。 私がここで言いたいことは、質問の出し方により、答えは如何様にも左右されるということである。自分に都合の良い結論が先にあって、それを導くのに都合の良い質問を、誘導尋問という。不破氏の強引な性格を髣髴とさせる論理の展開である。
NZ プナカイキ・ビーチホステル海岸 第二章 「資本主義の病理学者・マルクス」の中で、 不破氏は、マルクスは「搾取」の秘密を解き明かした、と言って資本論の「剰余価値論」を取り上げている。これはこの随筆でも何度も取り上げた中心的テーマであるので、ここでは繰り返さないが、一言で言うなら「剰余価値には、プラスもあれば、マイナスもあるとしなければ、資本主義社会は説明できない」と言うことだ。 それを認めなければ、先のGMの倒産も説明できない。そして、それを認めると「搾取」そのものが不偏の公理ではなくなり、資本論で使われている、不変資本、可変資本という用語の定義にも矛盾が生じ、資本論の骨格が崩れてしまうのである。 次に「地球温暖化」というマルクスの時代には無かったテーマを大々的に取り上げる。そしてこれは、資本主義社会において構造的に避けがたい問題であり、資本主義社会に責任がある、と言わんばかりである。 実際の所、地球温暖化が問題視されだしたのは、ほんの10年、20年前からである。それまでは誰もそんなことに気が付いていなかったと言うのが、本当のところだろう。その地球温暖化の問題を資本主義社会だけの責任にするのは、如何なものであろうか。 たまたま後進国だったが為に、CO2の排出量が少なかったかもしれないが、今や、中国のCO2排出量は世界のトップクラスである。このような不破氏の無茶苦茶な話を聞くと、ソ連がまだ元気な頃、「資本主義国の核実験は悪であるが、共産主義国の核実験は正義である」等という馬鹿げた詭弁を思い出さずにはおれない。 共産主義社会になりさえすれば、階級と矛盾が無くなり、人々は皆明るく健康的に暮らせるようになり、理想的な社会になると言うが、そんなに簡単な事ではなかった事は、ソ連の崩壊を見て明らかになった。 ましてや、マルクスの時代には考えられなかったこと、つまり、資源の枯渇、地球温暖化、人口の増加と食料・水の不足、テロ、これら新たな問題は、共産主義社会になれば解決すると言う問題ではあるまい。 NZ プナカイキ 第三章において、 不破氏は、「ソ連はマルクスの予言した共産主義社会ではなかった」と切り捨てた。レーニンはマルクスの理論を踏襲していたが、スターリンになってからすっかり変わった。「ソ連社会は、覇権主義と専制主義を特質とする、社会主義とは無縁な人民抑圧型の社会であった」と。 たった一人の指導者の交代で、悲惨な人生を余儀なくされた、あまたの人々にとって、こんな総括は何の慰めにもなるまい。将来も第二、そして第三、第四のレーニンが出た後で、第二、そして第三、第四のスターリンが出ないと言う保証は全くないのである。 それよりも、第二のスターリンが出たときに、それを引きずり下ろすことの出来る体制を確保しておくことの方がより大切では無かろうか。つまり「言論の自由」は最低限、保証されねばならないし、一党独裁では「言論の自由」が保証されているとは言えないであろう。 不破氏はソ連を一刀両断に切り捨てる一方で、中国共産党には、エールを送っている。 曰く「ソ連解体という世界的な波乱の中で、社会主義をめざす国ぐに・・・・中国、ベトナム、キューバが存在し、大きな発展の道を進んでいることは、世界の発展にとって重要な意義をもっています。そして、近年における中国の経済成長はいちじるしく、GDPの比較ではドイツを抜いて世界第三位になった」云々と。 キューバについては、この随筆の「NO.13、キューバ革命50年の現実」で言及したとおり、共産主義体制がこのまま順調に続いて行くとは思えない。ベトナムもベトナム戦争後の復興は著しいが、隣国で同じ共産主義を掲げる中国と紛争に陥ったりして前途多難である。 たまたま高度経済成長の時期にある中国をさして、共産主義の未来に希望があるように語っているが、そもそも、中国も共産主義体制に行き詰って、「ねずみを取るのは黒い猫でも白い猫でも良い猫だ」(ケ小平)とか言って市場経済に踏み切り、活路を見出したのではないか。不破氏の論理の展開は、究極のご都合主義だ。
確かに、マルクスは未来社会に対して具体的な青写真は、ほとんど描いていない。それは後の時代の人にゆだねるべきだと言ったという。この点から言えば今後の共産主義社会は、広範囲な時間的、空間的、様式的、制度的な選択肢が残されていると言うことだ。そして何十年か実行してみて、いよいよ都合が悪くなったら「それは、マルクス主義ではない」と言えばよい。この論法で行く限り、確かにマルクス主義は死なない。「マルクスは生きている!!」であろう。
NZ エイベルタスマンの海−1 私の結論をまとめると次のようになる。 @ 恐慌論: 資本主義社会の、そして自由主義社会の宿命として、避けては通れない道であろう。英知を出し合って如何にその被害を小さく抑えるかに、腐心するしかあるまい。しかしこれは何もマルクスが発見した論理でも、公式でもない。これは、人間が生まれながら持っている、欲望が原因となって必然的に過剰生産や、価格高騰によるバブルが発生し、そして今度は、その結果として必然的にバブルの崩壊へ行き着くからである。 A史的唯物論: 経済が社会の下部構造をなしていることの説明に、唯物論を持ち出したようだ。唯物論で相当程度のことまでは説明できるが、全ての事象が説明できるわけではない。 B搾取論、剰余価値論: 資本主義社会に普遍的な論理とは言えないが(詳細は拙著「資本論ノート」参照)、社会状況によっては当てはまる時期もある。一部の富裕層と多くの貧困層との経済格差が大きくなった時、この論理が正しい公式のように思える。 C共産主義社会: この具体的青写真はマルクスによって提示されていない。したがって、ソ連のように70年間の実験の後で、失敗し、崩壊したら「これは、マルクスの言う共産主義社会ではなかった」と言って今後の共産主義革命に希望を繋ぐことが可能である。 こうして、マルクスは資本主義社会が経済的危機に陥るたびに、息を吹き返してくる。マルクスに希望を託し「マルクスは生きている」と思いたい人が出てくるのである。 しかし、真実は、共産主義にも、資本主義にも味方しないようだ。資本主義社会を批判して共産主義を提唱したマルクス、しかし、その共産主義の理想も、人間自身の中に潜む矛盾に立ち往生して挫折を余儀なくされた。 結局我々は、両者の弱点・欠点を認めて、真摯な気持ちになって政治経済に取り組んでいく事が肝要であろう。どんな体制にしても、人間の内なる矛盾を克服できないで、理想を追い求めても、それこそ空想的社会でしかないのだから。 |